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ゲーム論説ブログ

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noteはじめました

2014/04/23 21:56 Category:日記、雑記
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人向けのメディアプラットフォーム「note」に登録してみました。
 今後は過去記事をはじめ、新作もこちらに投稿していきます。
 このブログも続けますのでどちらもよろしくお願いします。


http://note.mu/a360

雑感・THE NEXT GENERATION パトレイバー/第1章

2014/04/06 14:35 Category:日記、雑記
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patlabor.jpg
が中学一年か二年のころだったと思う。
 友人に誘われ、ほぼ何の予備知識もなく見たパトレイバー劇場版第1作のビデオに、私はひっそりと度肝を抜かれた。
 冒頭で男が海に身を投げる。その口元に、悪魔のような笑みを湛えて。
 富士の樹海に降り立つレイバー。突然の銃撃戦。瓦解したレイバーの操縦席には、人がいない。
 二人の刑事が東京を歩く。華やかさなどとは程遠い、記憶の澱のような灰色の街を、何かを追って行く。
 アニメ……否、ロボットアニメと呼ぶにはあまりに地味で質素で的外れで、深く熱く現実的な映画だった。
 私はパトレイバ―に嵌り、アニメに嵌り、やがてゲームに嵌っていった。私のオタクとしての入り口は、紛れもなくパトレイバーだった。

 あれから二十余年。パトレイバーが復活する。アニメではない。実写としてである。

 20世紀末。ハイパーテクノロジーの急速な発達と共に、あらゆる分野に進出した汎用人間型作業機械『レイバー』
 それはまた、レイバー犯罪と呼ばれる新たな脅威をも生み出した。
 警視庁は本庁警備部内に、特化車両二課を新設。これに対抗する。
 通称、パトロールレイバー中隊。パトレイバーの誕生である。
 ……時は流れ21世紀。バブル崩壊後の長引く不況から、コスト面で不利なレイバーが次第に世間から葬り去られている時代。
 2002年の首都騒乱事件で一度壊滅した特車二課は、その立地を移転。運用技術の継承という名目上、第一小隊を解体して規模を縮小し、一度退役した98式AVを復帰させ、隊員を第三世代に入れ替えるなどして、首の皮一枚で存続していた。
 犯罪を起こすレイバーが減ってしまったのだから、彼らの出番などまずない。永遠とも思える待機任務に着く第二小隊。が、平穏は突如破られる。
 がなり立てる入電通報、轟くサイレン、第二小隊に出動命令が下される。
 はたして無能の三代目は、無事出動できるのか?首都東京に、SCLMの回転音が鳴り響く!

 ……と、大風呂敷を広げては見たが、内容はそこまで熱くはない。それもそのはず、本作は今後続く短編映画シリーズと、来年公開予定の長編作に向けての、第一歩に過ぎないのだ。
 ロボットアニメの実写化という試みと、新た二課の面々に馴染んでもらう、準備運動と思っていいだろう。
 なので、本作には泉も篠原も太田も進士も山崎も香貫花も(厳密には)登場しない。今の二課を構成するのは、三代目の面々なのだ。

 本作……否、本シリーズの肝といえるのが、何といっても千葉繁演じる整備班長シバシゲオと、筧利夫演じる第二小隊長の後藤田継次の存在感だろう。
 シバシゲオというキャラ自体が、千葉繁をベースに組み立てられた(名前は音響監督の斯波重治氏から)こともあり、実写化するならもうこの人しかあり得ないだろうと言うキャスティングであるし、シリーズ中で殊更強烈な個性を放った、後藤喜一のポジションを受け継ぎ、黙って立ってるだけで何かしでかしてくれそうな筧利夫のオーラは、我々の知るアニメと地続きでありながら、きちんと変わっていることを暗に教えてくれる。
 この両輪が、古参のパトファンを実写の世界にササーッと誘導するのに、最高のポテンシャルを発揮しているのだ。
 そんな両脇に支えられた新特車二課の面々は、アニメ版の面影を残しつつ別人として認識するのに丁度いい、見事なほどよさを持っている。

 そして本作のシンボルというべきパトレイバーは、我々のよく知る98式AVイングラムをベースに、改良に改造を重ねじっくりコトコト煮込まれて、今や原形もわからぬほどになっている。
 アニメで見たイングラムが見たかったんじゃー!というご意見もごもっともである。私も出来ればそれがいい。だが実写には作画の嘘は通用しないから、万が一バランスや挙動の不都合が生まれては元も子もない。何より現物としてそこにある以上、立っているだけで、動き出しそうな『実在感』を増す必要があっただろう。
 むしろ、アニメでは作画の手間から敬遠されがちな、メカメカしいゴテゴテしたディティールが、遠慮なく付けられていることに感謝したいくらいだ。
 そしてそのイングラムの駆動シーンは「さすが」の一語に尽きるのみ。
 20年前からライブアクションムービーと題し、実写とCGの競演を試みてきた押井氏と、日本のVFX技術があってこそ実現したそれは、手触りまで伝わるようである。

 そして物語を背から支える音楽は、もちろん川井憲次。劇場版1のエンディングに痺れたことがある人ならピンとくるであろう、新しそうに作っているのになつかしい川井節が、今回も押井フィルムを盛り上げている。

 劇中、第二小隊が夜の道を走るシーンがあるのだが、何故か私はそのシーンで、ああパトレイバーだ。と感じ入った。
 アニメにそんなシーンがあっただろうかと思い返しても見たが、殊更強烈におぼえてはいない。なのになぜか、ミニパトを先頭に指揮車が続き、キャリアに乗せられたイングラムが夜道を行くそのシーンに、妙な心強さを感じたのだ。
 その理由はいまだ分からない。だがもしかしたら、私はパトレイバーらしさというものを知らずのうちに、そんな何気なさの中に求めていたのかもしれない。

 ド頭からラストカットまで、みっちりパトレイバーっぽさを詰め込んで見せた、押井亭幕の内弁当とでも言いたくなる大快作。
 多感な頃に衝撃を受けたアニメが、20年の時を経て正に眼前に姿を現すなどという幸福に預かれる人間が、今後どれほど現れるだろうか?
 なに、眼前といっても同じ映像の中じゃないかって?そうではない。何を隠そう私、本シリーズにエキストラとして参加し、この目で生のイングラムを見てきたのだ。

 その話は次回、第2章が公開された時にでも語るとしよう。

タイタンフォールβをやってみた

2014/02/18 22:23 Category:日記、雑記
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TF_Fracture_Battle2.jpg
運なことに、TITANFALLのクローズドベータテスト参加権に当選した。そこで一足お先に体験した感想を記そうと思う。
 ちなみにプレーできたのはPC版で、Xbox用のコントローラを繋いでプレーした。また簡単なレビューは、昨年のTGSの記事にしているので、併せてご覧頂きたい。

 まず第一に言うべきことがある。FPSと聞くと、XboxファンならばHALOやコールオブデューティーのようなものを連想するかも知れないが、このゲームは若干趣が違う。なのでそういったモノを期待してプレーすると、妙な違和感を覚えるだろう。
 それはやはり、プレイヤーキャラの挙動と兵装が、かなり特異なことに起因するように思う。動きだけとっても、本作のキャラは壁走りや二段ジャンプといった、正統派FPSにはないアクションができる。
 つまり、建造物の上に上ることが容易になり、縦の戦いが格段に要求されるのだ。
 またダッシュが無制限にできたり、アビリティが最初から装備されていたりと、エイム&シュートに特化した平面のFPSではない。
 あえて言うなら、FPSにアクションを加えた、FPASと言ったほうがしっくり来るだろうか。

 そして本作最大の特徴とも言える、大型ロボット『タイタン』での戦闘。
 タイタンは最初から乗れる物ではない。開戦後しばらく経たないと使用できない。待ち時間は、敵を倒すことで速めることができる。
 タイタンの使用準備ができたら、自分の目視範囲の任意の場所にタイタンを投下させる。3秒ほどでタイタンが投下されるので、これに乗り込んで戦うことになる。原則として、他人が呼んだタイタンには乗れない。
 タイタンに乗った瞬間、視界がグンと広がり、挙動が一気に重くなり、火力が数倍に跳ね上がる。先ほどとはまた違った手応えを感じるだろう。

 他に特色として挙げられるのが、彼我両軍にbot(CPUキャラ)が多く配されることだろう。これは妙案だと膝を叩いた。
 タイタンという大型ロボットを主役に据えようとすれば、マップの面積は自ずと広く取らざるを得ない。そうするとタイタンに乗っていないときの移動距離が増えたり、人口密度が薄くなかなか敵に会わないなど、妙な「間」を生んでしまうことになる。
 そこで両軍に適度なbotを散らせば、密度的な問題は解決し、間を生むことはなくなる。またその分味方にとっては、タイタンを呼び出すチャンスが増えるのだ。
 無論botとPC(プレイヤーキャラ)は公平ではない。botは比較的簡単に倒せるが、PCはやや装甲が堅く設定されている。結構ドジを踏むことも多く、スコア面でも差別化がされているので、戦力というより演出として期待すべき要素だ。

 他にも面白い要素としては、スマートピストルなる武装の存在だろう。およそ視界に入った標的を、自動追尾弾で撃てるという、FPSにとってはかなりチートチックな武器である。
が、無論万能ではない。先述したとおりbotとPCは均一ではない。この武器はbotこそ1ロックオンの一撃で倒せるが、PCに対しては3ロックオンが必要になる。つまり時間がかかるのだ。
 無論マニュアルで撃つこともできる。つまりは対PCについては穴も多い武器なのだ。
 だがこの武装一つあるだけで、botが演出であるということが裏付けられていると思う。実際使ってみるとわかるのだが、botをちゃっちゃと倒せるのだ。エイミングがしんどくなってきたおじさんには、実にありがたい。

 ひとまず主だった点はこのくらいである。書きすぎると本発売されたとき書く事がなくなってしまうので(失言)、あとは製品版を待つとしよう。
 繰り返しになるが、このゲームはFPASという新しいゲームになると思うのだ。

書評・白暮のクロニクル(1)

2014/01/31 13:17 Category:日記、雑記
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_1.jpg
SF、といえば、言わずもがなサイエンスフィクションの略である。が、あるいは漫画ファンにとっては、藤子・F・不二雄が語った「すこし・ふしぎ」の略というほうが、馴染みがあるだろうか。
 この「すこし」というのは、あとにかかるふしぎの「程度」を指しているように見るのが、自然な日本語解釈だろう。しかし氏の代表作「ドラえもん」を見ると、その解釈に些か疑問がある。
 ドラえもんのひみつ道具は、時を越え空間を無視し、空を容易く飛び回り二次元を実体化させる。今の技術を以ってしても到底成し得ない、とんでもないふしぎなものだらけだ。
 ではドラえもんは「すこし・ふしぎ」ではないのか?
 私は「すこし」とは、作中におけるふしぎの「量」ではないかと思うのだ。
 ドラえもんの舞台は、何の変哲もない現代日本の住宅地。もしあの世界からドラえもんがいないまま物語が進んだら、何の変哲もない日常が繰り返されるだけだろう。
 そこにドラえもんという「ふしぎ」が一つだけ投入される。のび太のトラブルを解決するために出されるひみつ道具と、その副作用に懲らしめられるのび太。たった一匹(?)のネコ型ロボットが、ある時は些細な事件を、ある時は大冒険を演出する。
 もしその舞台が、ドラえもんの持つ不思議以上の不思議で構成された世界では、ドラえもんは宝の持ち腐れになるだろう。SFにおいて「ふしぎは・すこしでいい」という教訓が見え隠れしているように思えるのだ。

 ゆうきまさみがいなかったら、今の私はいない。
 その理由と委細は本筋とは無関係なので割愛するが、私にとってゆうきまさみとはそういう漫画家である。
 私は氏を(ご本人は違和感を覚えられると思うが)SF漫画家だと思っている。
『究極超人あ~る』『機動警察パトレイバー』『パンゲアの娘KUNIE』『鉄腕バーディー』。私がパトレイバーの次に好きな『じゃじゃ馬グルーミン・UP!』では鳴りを潜めたものの、その作品群には、日常の水面に一滴の「ふしぎ」を落とし、その波紋をつらつらと描いたものが多い。
 バーディーでは、ふしぎの分量がかなり多くなっていたが、本作におけるふしぎは一点『オキナガ』の存在である。

 平成27年。厚生労働省から渋谷保健所へ新人研修に来ていた伏木あかりは、集団食中毒の発生源と目される店を調査中、その店主の惨殺死体を発見してしまう。
 警察が大挙する現場に、やや遅れて現れた厚労省参事の竹之内が、現場の刑事にぽつりと告げる。
「被害者は『オキナガ』です」
 伏木は事情が飲み込めぬまま、なぜか研修を中断させられ、厚労省夜間衛生管理課なるセクションへ配属された。
 伏木は配属初日、殺人図書館と呼ばれる私文庫で、少女のような顔立ちの少年に出会う。
 雪村魁。彼もまた『オキナガ』であった。
 だがその直後、雪村はそこを訪れた少女に斬殺される……。

 本書の帯文で作者自らが「新境地」と語るように、今までのゆうきまさみとは少し趣が違う。物語の主体はアクションでも競馬でもなく、ミステリーである。
 あまり書くと楽しみを奪ってしまいそうなのだが、謎の見せ方が実にさり気なくて面白い。
 オキナガという「殺し方に手順がいる種」と「なぜ一般的には知られていない殺し方を加害者が知っていたか」という謎。十二年周期で現れる「未年の殺人者」と、70年に渡る連続殺人同一犯説。そしてそれらを繋ぐ『オキナガ』とは何者か……。
 まだまだこれからの物語故、その行く先は見えないが、週刊連載らしい後の引き方が実に心地よい。
 新境地といえば、ヒロインが実にヒロインらしくないのも面白い。
 元よりショートヘアと眉毛に並々ならぬこだわりを持つ作者であり(私見)、今回もそのこだわりは遺憾なく発揮されている。が、いわゆる「コミック的な可愛い女子キャラ」とは違い、どこかにいそうな女性公務員として描かれ、お嬢さんというよりおっかさん的な気性もあり、色気は極めて抑えられ、しかしながら「かわいげ」はしかと持っている。
 男性青年誌の主人公として配するにあたっての配慮か、あるいは少女的でどこか子供っぽい雪村との対象を狙ってか、何にせよこれからが楽しみなヒロインだ。

 すこしだけふしぎな『オキナガ』と、すこしだけふしぎが存在する日常。
 ゆうきまさみらしい白の多い画面で描かれた、新たなクロニクル(年代記)を飾るに相応しい傑作SFミステリーが、始まっている。
 

 全くの余談だが、本作の主人公伏木(ふせぎ)は、女性ながら身長178センチという「でかいふしぎ」である。お後がよろしいようで。

CEROって何じゃろ?

2013/11/06 20:18 Category:日記、雑記
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定非営利活動法人コンピュータエンターテイメントレーティング機構。ゲームファンなら一度は耳にするであろう、CEROである。
 国内における家庭用TVゲームソフトを審査し、その作品に適った対象年齢を指定する団体というのが、およその我々の認識だと思う。
 今や珍しくなくなった、海外タイトルの国内移植作等では、海外版との差異が話題になることも多く、その都度ネットにはCEROに対する怨嗟の言葉が列を成すのが、最近のお約束であるようだ。
 しかしよく考えてみれば、CEROが審査したという話は聞くものの、規制したという話は聞かない。では一体、何が海外版と国内版の差異を生み、それにより何が守られているのだろうか?


 まずCEROについて、もう少し詳しく解説しよう。
 特定非営利活動法人、いわゆるNPOは「特定の公益的・非営利活動を行うこと」を目的とする法人であり、その運営によって得た利益を、構成員に分配するのではなく、主たる活動に充てることを意味する。
 字面からつい、収益をあげてはいけないボランティアのようなイメージを受けがちだが、収益を上げることに制限は無い。
 ちなみにCEROは会員の入会金及び会費、そして会員企業がソフトの審査を申請する際の審査料を主な収入源としている。

 CEROの主たる目的は
『ゲームソフトの年齢別レーティング及びその他の方策を実施することにより、一般市民やユーザーに対しゲームソフトの選択に必要な情報を提供し、青少年の健全な育成を計り且つ社会の倫理水準を適正に維持すること』 (定款第3条抜粋)
 つまりゲームの対象年齢情報を消費者に明示し、みんなでしあわせになろうよということだ。
 ではCEROは、何を見てどんな判断を下すのか?

CERO倫理規定はこちら

 倫理規定を見てみると、審査対象となる表現は大きく分けて、性、暴力、反社会的行為、言語思想関連の4種。さらにそれぞれが、いくつかの小項目に分けられている。
 無論これに引っかかれば、自動的に判定が下るというものではない。その「度合い」という点もチェックされる。
『「直接的」であるか、「間接的」であるか。「肯定的」であるか、「否定的」であるか。「必然的」「自然的」であるか、否か。テーマとの関連で「主題的」か、「背景的」か。一般人の観点からみて不合理に嫌悪感を与えないか、反社会的ではないか、扇情的ではないか等が考慮される』(同倫理規定より抜粋)
 これ以外にも、そもそも国内のソフトでやってはいけないとされる『禁止表現』もある。一部抜粋すると『性器及び局部(恥毛を含む)表現/極端に残虐な印象を与える身体分離・欠損表現/人身売買等を推奨している表現/実在する人物・国・国旗・人種・民族・宗教・思想・政治団体を敵視または蔑視する表現で、なおかつ一方的に非難・中傷する表現』などがある。
 CEROではこれを元にチェックリストを別途作成し、メーカーから送られるゲームのまとめ映像を、年齢や性別の異なる三人の審査員がチェックする。
 よく誤解されるのが、審査員の個人観念で「この表現はけしからん」といってチェックされるわけではなく、予め用意された上記のような基準に照らし合わせて「これはここに該当しますね」というチェックをするのである。
 そうして上げられたチェック結果を見たCERO事務局が、各項目で最も高いレーティングを採用する。というのがCEROの審査方法だ。
 中でも禁止表現に抵触すると、CEROからレーティングが付与されなくなる。そうすると、CEROの審査を販売認可の基準としている、国内プラットフォーマからその認可が下りず、国内では販売できなくなるというわけだ。
 これに加えて、プラットフォームによっては独自の基準を策定してチェックしたり、他機種で販売した同タイトルより、レーティングを下げたものを発売する場合もある。

 以上が、CEROの公式HPなどからまとめられる、CEROの活動内容である。ここからは、それらを基にした推察が些か混じることを留意されたい。


 CERO自体はソフトウェアの「審査」をする機関であり、メーカーに対し内容の改変命令や、販売禁止措置を行うなどの権限は無い。
 だが、CEROのレーティングを付与されることを、対応ソフトウェアの認可条件の一つにするプラットフォーマは確かに存在し、2005年の神奈川県での『グランドセフトオート3』の有害図書指定を皮切りに広まった、全国での区分陳列や18歳未満への販売禁止措置等、レーティングを取り巻く環境を鑑みれば、例え「事実上」という冠詞がつくものの、CEROが国内ゲーム流通の要の一つに数えられるのは当然であり、その影響力が過大評価されても致し方あるまい。
 事実、過去には審査用に提出された資料に不備があったため、一度与えられたレーティングが撤回され、メーカー判断で出荷停止になったタイトルもある。
 では、一部熱心なゲームファンが言うように、CEROが日本のゲームの表現を締め上げているのだろうか?

 平成17年10月から、東京都とCESA(コンピュータエンターテイメント協会)をはじめ、ゲームメーカーや大手販売店の代表が集って行われた『テレビゲームと子供に関する協議会』の合意文書がある。

合意文書本文はこちら

 要約すると
>CEROは新しい区分(現Z区分)を設ける。
>CESAはZ指定ソフトを、18歳未満販売禁止として扱い、販売店に対し区分陳列や年齢確認、青少年への販売禁止の徹底を要請する。
>メーカーはZ指定をソフトに表示する。
>販売店はZ指定ソフトの区分陳列や購入者の年齢確認を行い、青少年へ販売しない。
 という点が確認され、CEROのみならず各方面が、健全化への努力をすることで合意している。
 上記からも分かる通り、CEROには規制及び販売制限の決定権は与えられていない。そして同意事項の何処を見ても、CEROの審査規定そのものに対する改正要求はされていない。つまりCEROの機能は適当(本来の意味で)であると認められているのだ。

 ではCEROの審査、ことZ指定に対するゲーム業界への影響は、いかほどのものだろう?
 2013年9月1日現在。CEROのHPにある審査済みタイトルを検索してみる。
 なお、付与されるレーティング制度が改変されたものに関しては、該当する年齢層をまとめて算出している。またそれに際し、旧18歳以上指定のタイトルは、改変後D指定とZ指定を再配分されているので、そちらの数に入っている。
 結果、それぞれの年齢区分のタイトル数は、以下のような比率になった。

グラフ
※クリックして拡大

 決してZ指定のゲームが多いと思っていたわけではないが、こうして比較するとその少なさに驚く。全年齢タイトルの30分の1だ。
 にもかかわらずZ指定タイトルの話題がこれほど多いのは、それだけユーザーの多くが、Z指定タイトルに注目しているということだ。
 ここから各レーティングごとの販売数の比率を割り出す事は難しいが、市場全体におけるZ指定タイトルの比率と、実際の影響力とは相当な開きがあるということを頭に置いて頂きたい。

 まとめると、CEROがあるから国内版の表現が変わる、というのは若干語弊があるように思う。CEROのレーティングでZ指定をされると、CESA及び販売店により陳列場所と購入者に対する制約が課され、売り上げに影響があるため、これを回避するため表現を抑えたソフトが発売される場合がある。というのが、およそ理に適った解釈ではないだろうか?


 CEROの専務である渡邊和也氏は以前
「我々が折角Z区分があるんだから、もっと表現の天井を上げていいんじゃない?としても、メーカーさんがこれくらいにしておこうというケースが多いですね」
 と語っていた。
 ではメーカーが及び腰なのが悪いのかといえば、プラットフォームごとの独自規定や、販路の制約を回避したいなどの事情もあり、一概にそうだとは言えない思う。
 それに、CEROのような機構があるからこそ、プラットフォームごとに異なる規定が設けられたり、それによる『規制下げ合戦』などが起こらずに済んでいる。
 マルチタイトルが当たり前になりつつある昨今。もしプラットフォーマごとにちぐはぐな基準で審査されたら、それに合わせようと開発者もコストが嵩んでしまい、結局一機種のみでの発売を余儀なくされる、なんでいう事態になりかねない。
 また、自治体が条例を制定する際の基準に採用され、地域ごとの基準のばらつきをなくし、実態に適した条例の制定につながっていることも事実である。何よりそうした、実体としての業界努力が示せていなければ、ゲームに向けられる世間の指弾はもっと苛烈になっていたかもしれない。そう思うとぞっとする。

 海外オリジナルの表現が刺激的であればあるほど、国内版との差異にがっかりすることもある。国内で海外版を買えても、言葉の壁に四苦八苦することもざらである。
 だがここまで読んでいただければ、CEROの門扉は皆さんが想像しているより、かなり広いことがご理解いただけたであろう。同時に何が海外版と国内版の差異を生み、それにより何が守られているのかということも、お察し頂けたと思う。
 オリジナルに近いものを遊びたいと願うのは、ファンとして当然のことだろう。それができないことに不平を漏らすのは容易だが、それを変える事は本当に出来ないのだろうか?
 ファミコン誕生から三十年。ゲームの消費者層は、保護者あるいは有権者と呼ばれる世代に移っている。ゲームの表現を守れるのは誰か。そのために働きかけるべきは何処か。不平を言う前に、そろそろ真剣に考えるべきなのかもしれない。

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